保土ヶ谷区 まき歯科 院長紹介

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院長:真木 律之 の自己紹介

略歴 歯科医師歴25年
H4神奈川歯科大学卒
H9まき歯科医院開業
AIAI(国際インプラント学会)会員
AIAIインプラント学会認定医
JIADS会員
オーラルフィジシャン
日本臨床歯周病学会会員
歯周内科医
ITIインプラント医 AQBインプラント医
カルシテックインプラント医
星座 双子座
好きな食べ物 寿司
出身 横浜
動物占い リーダー気質のライオン…手先が器用な努力
スタッフから一言 早寝早起き! とっても勉強家。笑顔満点の先生です。

安心の治療をご提供するために常に技術を磨いています

院長の生い立ち

私は、開業場所でもある、横浜市保土ヶ谷区で育ちました。
東海道53次の「保土ヶ谷本陣」などでも有名ですが、昔は家の前の道は舗装されていなく隣には、家も無く空き地でした。
今では、考えられない様子でした。

家族は3つ年上の姉が1人います。 いわゆる「一姫二太郎」ですが、姉は、まじめで勉強家でしたが反面、私はわんぱくだったのでいつも母親に叱られたあと、次に姉に叱られるダブルパンチでした。

父親は三菱電機に勤めるサラリーマンで、もくもくと仕事をしていました。
一流の電気会社なので、当時は最新の家電製品が周りの家より早く家にあった記憶があります。ビデオデッキ、クーラーなど。また父親が早稲田大学で母親がお茶の水女子大学を卒業しているのが小さい時のちょっとした自慢でした。

父親は非常にやさしく怒鳴りつけられるほど怒られたことが無く、休日になると家族をいろいろな所に連れて行ってくれました。

幼少期

近所には3人の「いとこ」が住んでいていつも一緒に遊んでいました。
私は、一番年下でとっても可愛がってくれました?(子分でした)
幼稚園に入ると近くの友だちを子分にして今までのうっぷんを晴らす毎日で当時好きだったのは、車と西城秀喜とザリガニ釣りでした。
車は、国産車のすべてを覚えて走っている車を見ると、色の種類やスペックなどもすべて当てていて、両親は「この子は、天才だ」と思っていたそうです。
私にとって両親が天才と思ったことが、これが最初で最後でした。
西城秀喜は、始めて買ったレコードで歌詞カードにフリガナを書いてもらって、振り付けを覚えて良く歌っていました。
近所の子分を集めて、電気スタンドをスポットライトにしてリサイタル(ジャイアンみたいに)をしていたそうです。
ちなみに、姉さんは郷ひろみファンでした。
ザリガニ釣りは、今では考えられないけど、家の周りには、沼がたくさんあり(今の狩場インター付近)家の前の駄菓子でスルメイカを買ってタコ糸につけてザリガニを釣っていました。
近所の子供達とドロドロになりながらザリガニを釣っていました。

小学校時代

野球少年でした。巨人ファンで巨人の野球帽にバッチをたくさんつけてかぶって、学校が終わると、近くの空き地でクラス対抗の野球試合を良くやっていました。
ちょうどインベーダーゲームなんかも出てきた時代で昭和のにおいを感じます。
卒業アルバムには、「めだとう精心NO1」と書いてあるのでおとなしいというより、活発な方でした。

中学時代

中学に入ると、野球少年であったのにバスケ部に入りました。
理由は「坊主頭」が嫌だったのです。(今では自然に坊主ですが)
バスケづけの毎日で、ものすごく頑張りました。
小学校時代にバスケット(ミニバス)をやっていた連中は、先輩やコーチなどに可愛がれ、私など中学から始めたので見向きもされず、練習中もつま先立ちで声を出しているだけでした。
・・・・「レギュラーになりたい」・・・・
ただそれだけで練習を頑張っていました。
朝練もサボらず、休み時間もシュートの練習を毎日コツコツやってきました。
ある重要な試合のことでした。
当然僕はベンチスタート、自分のポジションは他に3人ミニバス出身がいて自分は4番目でした。
しかし自分のポジションの選手が次々に失敗し、そのたびコーチが怒鳴りつけては選手交代、そして最後に交代選手がいなくてしょうがなく僕が呼ばれて、初めて試合に出ました。その日は練習のやりすぎで怪我をしていましたが、けが人の自分を使うところまで試合はもつれていました。

試合中は怪我の痛みなどは不思議と消えてしまい残り10秒、無我夢中でラストシュート
逆点勝ちでした。
毎日努力して、それで夢がかなってヒーローになった瞬間でした。
これが私にとって、人生で最初で最後のヒーローの瞬間でした。
とにかくバスケ部の仲間達は、仲が良く今でも付き合いがあります。

高校時代

神奈川県立舞岡高校
アントニオ猪木に憧れ、格闘技の世界へ「柔道部入部」
青春時代は、野球部より短い5厘がりでした。
柔道初段 地区大会3位
その後いっきにやる気がなくなり退部
バイクに乗ったり、バンドなどをしてチャラチャラな青春時代を過ごしました。

歯科医になったきっかけ

私が歯科医師になったのは、昔から歯科医師にあこがれて将来の夢は歯医者さんになりたいと思っていたわけでは無く、親が歯科医なので、なんとなく歯科医師になったわけでもありません。
歯科医師という職業を選択するパターンとして、まず歯科医師にあこがれてなどということまずありません。
多いのは、親が歯科医師だから、親が医者で医学部に入れなく歯学部に入った、などが多いです。
私は幼少期にいつも一緒に遊んでいた「いとこ」の父親が歯科医だったのでそれが、きっかけだと思います。
幼少期にいつも可愛がってくれた「いとこ」のお兄さんお姉さん達も今では立派な歯科医です。

神奈川歯科大学時代

まず歯科大に入学してビックリしたことは、まわりの学生の父親が医者、歯医者、会社社長などと「おぼっちゃま、おじょうさま」だらけでした。
今まで小、中、高校と公立だったので私立の学校へは通ったことが無く、自分はごく普通に生活していてつもりが、いっぺんに「貧乏まき」になってしまい。
こつこつアルバイトにはげむ学生生活でした。
一方趣味では「ウィンドサーフィン」にはまって海ばかり行っていました。

勤務医時代

歯医者になり、鶴見歯科に就職 歯科医師が30名ほどいる大きい病院です。
3年目には医局長になりました。
妻との出会いもこの頃でした。
当時の歯科界の流れでは、予防歯科などという発想がまだ少なく、どれだけうまい入れ歯を作ることを勉強していました。インプラントもあまり積極的にはやってなかったです。とにかく、入れ歯ばかり治療していました。
南カリフォルニア大学の客員教授の納富先生の所に1年半コースで入れ歯を学びにも行きました。とにかく毎日、毎日入れ歯ばかりでした。

まき歯科開業

たまたま家の近くに「よねだ歯科」が売りに出ていたので買いました。
なんか中古車を買うような、物凄く安易なきっかけの開業でした。
理由は「治療の腕さえあれば、どこでもいい」と意味の無い自信
しかし、その自信は見事に粉砕・・・・・
その後は地獄の毎日でした。

米田先生から引き継ぐと患者さんには、「誰この人」という不信感
完全にアウェーでした。
そして1ヶ月後 スタッフ2人が辞めてしまい、誰もいなくなってしまいました。
自分1人で準備 診療 会計 あとかたづけをやる孤独な毎日、そんな悲惨な日々でした。
そして更に追い討ちをかけるように、7ヶ月後には顎の骨を折ってしまい、口が開かないまま診療
10ヶ月後には1日の患者さんが数人しかこなくなりほぼ廃業状態となり、もう限界でした。精神的にも限界でした。
今までの人生の中で一番悲惨な1年間でした。

その後結婚して、妻と2人で地道にやっていました。

入れ歯は得意なので、入れ歯の患者さんはたくさん来てくれました。
時間がたっぷりあるので、時間をかけてじっくりと治療しました。
入れ歯の患者さんは
「もっと歯を大事にしておけばよかったのにねー」
2人に1人ぐらいはこのセリフを言います。
入れ歯は得意なので、良く噛めるようになったと喜んでくれます。
しかし
「前の入れ歯よりは噛めるようになっても昔の自分の歯にはかなわないです。ということは、自分の歯を大切にすることが大事なのではないか。」
これが私の予防歯科の原点になります。
そして、妻と2人3足で予防歯科を学びました。
予防歯科のパイオニアでもある山形県の熊谷先生の所へも妻と2人で学びにも行きました。

Dr熊谷
オーラルフィジシャンのサティフィケート授与

             山形県の日吉歯科にて



ジアズペリオコース 小野先生 ジアズ大阪補綴コース 中村先生
カルシテックインプラント 林先生 ジアズエンド 吉川先生


そして予防歯科だけでは、壊れてしまったお口は治らないので歯周病、インプラントなどいろいろな講習会に参加して治療レベルの向上を目指しました。
そこで出会った尊敬できる先生がた
ジアズの小野善弘先生
予防歯科パイオニアの熊谷崇先生
歯周内科学の生田図南先生
カルシテックインプラントの林先生
本当に素晴らしい先生ばかりで、自分の人生を変えてくれました。

まき歯科もいろいろな苦難を乗り越え10年以上経過しました。
しかしこれからがスタートだと思っています。
10年後20年後の患者様の笑顔をつくれるようにスタッフ一丸となり頑張って生きたいと思っています。